6-1
目が覚めたら大きな影がこちらを覗き込んでいたので一瞬だけTETSUかと思ったけど、それにしてはシルエットが違いすぎたので二瞬めにはそうでないことがはっきりとわかった。
「かず、なりくん……?」
久しく会っていない青年がなぜこちらを見ているのか。
―――時間がない。はやく意識をはっきりさせろ。
「えっ、こいつ直接脳内に!?」
慌てて身体を起こす。えらく顔が近いと思っていたら青年に抱きかかえられていたらしい。深い色のマントをアンティーク調のブローチで留めている変わった出で立ち。顔つきはどうみても知り合いの若い男性。短く黒いくせ毛で、前髪を少し撫でつけている。がっしりしとした骨格に、端正ながらもどこか粗野な色っぽさも兼ね備えた大振りなパーツ、太くしっかりとした眉の下で、キラキラとした瞳がまっすぐとこちらを見ている。
「―――ドクター、K……KAZUYA、さん……?」
そう言うと、瞳が少し眇められた。微笑んだようだった。
きょろきょろ周りを見渡せど、彼と私の他には何もない。ただの空白だけが視界に飛び込んでくる。風もなく、音もなく、匂いもしない。温度も、こんなに近いのにわからない。
「あなたこんなところに、ずっとひとりで、いる、の?」
男は首を横に振る。違うのか、よかった。あんなにみんなから崇め奉られほぼ信仰に近い感情を向けられ、TETSUからあんなふうに愛されている男が、こんな寂しい場所にずっと一人でいるなんて耐えられない。彼のこと置いてったんだから責任持って常夏のハワイみたいなとこできれいな海と山と空を見ながらカクテル飲んで、面白おかしく愉快に暮らしててくれなきゃやだ。死んだ人間に無茶を言うなという話だが。
死んだ人間。
「あー、そっか……私、死んだのか……」
TETSUさんごめん……。と呆けた声で呟く他ない。もう届かないわけだし。
死因については覚えてない。うーん、と首をひねるけど、今朝のことしか思い出せない。普通にご飯食べて、仕事の都合で家を出て……脳卒中とかの突然死かな。せめて家の中で倒れてたらTETSUに見つけてもらえた可能性もあったかもしれないが。
ドクターKは頭を抱える私を抱えたまま、どこぞへスタスタ歩いている。聞いてた話とどうも違う。ガンの全身転移で車椅子生活の後に亡くなったとか聞いたけれど。死後の世界だと元気な頃の姿になれるのかもしれない。良いことだね。
「どこに行くんですか?」
閻魔様に地獄の沙汰を言い渡されるのかもしれない。ドクターKは答えぬまま、やはり長い脚で歩いている。お姫様抱っことかTETSUさんにも数えるほどしかしてもらったこと無いんだけど。
しかしこれがあのドクターKか。あまねくあらゆる人たちを魅了して焦げ付かせた一番星。星ってやつは遠くから眺める姿が一番美しく、近くで触れたら眩しくて見えないわ焼け付くわで大惨事だ。
私はやはり、闇の狭間で反復横跳びしているような男の傍のほうが落ち着く。神代一人先生もそうだが、正しすぎるものは強くて白くて少し怖いのだ。
あーあ、TETSUさんごめんね。出掛けついでに専門書店で彼が発注していた本を受け取ってくるはずだったんだけど。いやそれ以前に、さすがのあの人も自分より先に私が死んだらショックだろうな。ショックなのかな。ショックだといいなぁ。やっぱりだめ。普通に傷ついてほしくない。あの男は結構ナイーブだし、些細な心の傷でも闘病に差し障るかもしれない。
「あっ、痛っ」
ちくり、と切なく胸が痛んだ気がしたけれど、よくよく探れば腹だった。
「いて、いたたたっ」
痛みはどんどん増して、冷たく鋭く激しく痛む。生理痛とは違う、胃痛とも違う。もっと直接的ななにかだ。皮膚から背中までを貫くように。痛みの冷たさとは逆に、周囲には熱が広がっていく。
「ってぇ……なにこれっ……」
―――まずい、急がなければ
お腹を抑える私を見て、少し焦ったテレパシーが届く。走るスピードを上げたのか、揺れが激しくてその度腹部に激痛が走った。
においがする。
血の匂い。
消毒液のつんと清潔な匂い。
ざわざわと、音が鼓膜を揺らすけれど、なんの音かはわからない。高い音と低い音が不規則に混じり合ってぼやける。
お腹の熱と痛みは増す一方で、歯をギリギリ食いしばる。苦しくてしかたない。視界がぴかぴか白く光って、ドクターKの顔もよく見えない。
もしかして死ってめちゃくちゃ痛い? この痛いの永遠に続く?
痛みが激しくなればなるほど、耳の奥に届く音が段々と形を持って、脳に響く。男性の声だ。複数人、それから女性の声も。ピッ……ピッ……とすごくゆっくりした間隔で鳴る高い電子音。
「……、……!」
私のでも、ドクターKのテレパスでもない声がする。まだ遠い。男の声。内容まではわからない。
ばくん、と雷に打たれたような衝撃が身体に走り、思わずドクターKにしがみつく。Kが立ち止まった。指先が示す方向に見えたのは、黒い影だ。
ぼやける視界の中、真っ白い空間にただそこにだけ丸い影が差している。深くて暗い。
耳に届く声がわんわんと煩い。なにを言っているかもわからないのに。
ドクターKは私の身体を抱きかかえたまま、黒く丸い影―――黒く丸い穴の上に翳した。
もう一度、しゃっくりの激しいやつみたいに身体全体が震える。耳鳴りみたいだった声がチューニングを合わせたみたいに誰かの言葉になった。
大きくて、乱暴な男の声。低くて耳慣れてて耳障りでずっと聞いていたい声が、響く。
「バカヤロー!! お前までオレを置いてくんじゃねェッ!!」
「テツさん……?」
KAZUYAさんが私から手を離す。身体が落ちる。重力に従い。あの世にも重力ってあるんだ。ニュートンもびっくりだね。
深い闇の中に沈んでいく。今度は白い穴となったあちらの世界にドクターKがいる。遠ざかる。
恋敵とすら言えてしまえる憎い男は、憎めない顔で笑ってた。そうしていると、どこかKEI先生に似ているね。
「死ぬのってマジ最悪……」
「あなたのその胆力、たまに本当に驚かされるわ……」
めっちゃ痛いし……。と呟いたつもりだけど、掠れて低い声しか出ないし血の味がした。
なんか変だと思ったらいかにもな酸素マスクを付けられててわりとウケたけどやっぱり「へへ……」みたいな声しか出ないし喉がひきつれてまた血が滲んだ気がする。 KEI先生は私の不器用な笑顔を見て少し微笑んだけれど、そっちもそっちで不器用な笑顔だった。心配かけてごめんね。
ICUを出たあと、KEI先生とK先生はご厚意で村の診療所に転院させてくれた。一応私も自称しないほうが意識しすぎだと責められる程度には人気作家の端くれなので、街なかの病院だと周囲の視線やちらほらと姿を表すマスコミであまり落ち着けなかったのだ。なにしろ事件性があるもので。
一切全く記憶にないが、どうやら私は通り魔から女の子を庇ったらしい。刺された当日のニュースは一面トップだった。結果的に怪我はなくとも、好奇の目にさらされてしまったであろうと思うと彼女に申し訳ない。
「ていうか、記憶にございません……」
「不祥事じゃないんだから……」
腹部の穿通性損傷、あとはそれにまつわる色んな小難しい名前の症例について説明を受けたが、とにかくお腹を刺されていっぱい血が出てショック状態、というのが致命傷だったらしい。奇跡的に処置が早く、搬送先でKEI先生達のオペも受け、それはそれは大変だったらしいけど一命を取り留めたのだ。とはいえ、ICUで最初に目覚めてからも合計3回あの世を見てしまったりもした。KAZUYAさんは私があの白い空間に戻ってきちゃった瞬間頭を抱えて脳に直接「―――はぁ」と深いため息を届けてくれた。会う度に「戻し方」が雑になっていって、なるほどこの人にまつわる思い出話って結構人間味の部分が語られていないな、と気付いた。
そうだ、そのうち一度だけドクターKじゃない人に出迎えられたことがある。知らない男だった。若くて割と精悍な顔つきだったけど、あの世の外見年齢が享年ではなさそうなのはKAZUYAさんでわかっていたから、実際のところあの男の人がいくつで死んだかは謎だ。柔らかい質の茶髪を不規則に伸ばしていて、TETSUと譲介以外にこんな髪型の人いるんだなって思った。そして「―――死ぬか生きるかさっさとハッキリしろ! アイツの身が持たん!!」とわりと理不尽にキレられた。何なんだったんだあれ。死にかけすぎて混線したのかな?
なんにせよ今生きているのは、処置の早さと手際のおかげだ。奇跡だと思う。なによりも奇跡な部分は、たまたまかばった女の子が神津海ちゃんだったことだ。なんか、K一族の子なんだって。世の中狭いね。いまはT村で修行中らしい。たまたま同じ専門書店に行く途中で、その道中で遭遇したとかなんとか。
「助けてくれたんだね、ありがとう」
「え? いえ、あの、どう考えても助けられたのって……」
襲われかけた直後に出血多量の人間の処置など、十代の子供にはハードすぎる。ほんと後先考えない人間で申し訳ない。トラウマものだ。KEI先生が海ちゃんに「無駄よ。気を揉むだけ損するから感謝だけ受け取りなさい」とアドバイスしていた。なんか知らんけど私の取り扱いがうまい。これからもどうぞよろしくね。
「とにかく、容態が安定されて本当に良かったです」
KEI先生の隣で麻上さんと宮坂先生が微笑む。転院した以上は、しばらくの間は彼女達に沢山迷惑をかける事になってしまうだろう。なんだか申し訳ない。知った仲ではあるので気になることがあったら相談しやすいのは助かる。みんな腕は確かだし。
頼もしく微笑む女性陣から一歩離れて、男性陣が見守ってくれている。KEI先生と共に執刀してくれたらしいK先生と、一也先生。その間診療所に詰めていてくれた高品先生はさらに一歩離れたところに居た。それもそのはず、K先生と一也先生のいかついシーサーに囲まれる形で、見慣れた男が死ぬほど――人でも殺しそうなほど――不機嫌な雰囲気で椅子に座っているからだ。医者だというのにあまりにも殺気立っている。彼から少し離れた場所に居たがる高品先生の判断は正しい。
「それで、あの……あの人は一体……」
「気にしなくていいわよ。オペ室に入ったはいいけれど手が震えてなにも出来なかった男のことは」
「いやそれ、私が一番気にしなきゃいけないんじゃ……」
KEI先生の手厳しい言葉に、TETSUの拳の中で杖がきしんだ。一層強くなった殺気に高品先生がヒィッと震え上がって麻上さんの後ろに隠れる。
「四六時中居るくせにあなたの目が覚める度にICUから逃げてた情けない男のことなんて本当、気にしなくて良いわよ」
いやその情けない男多分私の大切な人なんですが。
うつむくTETSUの顔は前髪と影で見えない。一也先生のほうは少し困ったような「困った人達だなぁ」といったような表情だけど、K先生は大真面目な顔でKEI先生の言葉に深く頷いている。相変わらずTETSUに厳しい。
「し、仕方ないですよ……その人元気そうに見えて重度のガン患者なんで……」
体調が思うようにいかない時だってあるだろう。フォローしたつもりなんだけどTETSUと高品先生以外のみんなが深い溜め息をついたのでどうやら上手く行かなかったらしい。高品先生はなにか言いたげに口を開いたけれど、しばらくあうあうしたあとやっぱりなにも言わなかった。
「やっぱりあなたたち一度話し合いなさい、ふたりで」
「えっ」
この状態のTETSUとですか!? KEI先生がすっくと立ち上がり病室から出ていく。麻上さんは困ったように笑いながら、宮坂さんと海ちゃんは勇敢にもTETSUをひと睨みして去っていった。どう考えてもこの女性陣のほうが私よりよほど胆力がある。男性陣の最後尾で部屋を出ようとした高品先生はくるりと踵を返して私に耳打ちする。
「やばかったらコール押してくださいね」
私は猛獣の相手でもさせられるのだろうか。
頼れるドクターチームが去って、猛獣ことTETSUはしばらく無言で俯いたまま、私は彼になんと声をかけるべきかわからぬまま時間だけ過ぎていく。さすがの私もまだ本調子じゃないので、ぐったりとベッドに身を預けたまま、このまま花見ならぬ、色男見しながら寝ようかなぁと思ってうとうとしていたところ、男は杖を使ってふらふらと起き上がった。ゆっくりと引きずるような足取りは、あれこの人近頃は小康状態だったよなぁと違和感を連れてくる。
油断していたところに、ベッド脇のスツールを蹴飛ばすガタンという音がした。同時に、枕に預けた私の頭の横に衰えてなお力強い腕がぐわっと降ってきてシーツを鷲掴む。まだわりと重症なので心臓に悪いことしないで欲しい。
ていうかこの人、いま蹴躓いた?
「て、TETSUさん?」
「…………」
「徹郎さーん……」
なおも前髪で顔が見えぬまま、顔の横にぬっと伸びた腕は血色が悪い。
かさつく頬に手を伸ばす。「えっ」濡れていた。
前髪をかきあげると、徹郎さんは眉を吊り上げて目血走らせて頬を引きつらせ、耐え難い怒りに耐えているようだった。
そうして苦痛にも似た激しい怒りに耐えながら、ぎらりと光る両目からはぼろぼろと涙がこぼれている。
「えっ、えっ」
「チクショ……おめぇってやつは……オメェはよォ……」
「ご、ごめん、ごめんね……」
形の良い額を私の肩に寄せて、薄い病衣にぬるい水気が染みた。
なにかわからないけどとにかく謝るしかない。ごわつく髪に指を通して、頭の形を探るように撫でる。
「なんのために俺より若く生まれたと思ってんだ……」
「ごめん……」
いや多分そういうのってタイミングだからテツさんより長生きするためってわけではないとは思うけど、それだと徹郎さんが私より先に生まれたの、私より先に死ぬためになっちゃうし……。我ながら的を射た反論だと思ったけどそんなこと言う雰囲気では当然無い。いちばん大切な人が、一度も涙なんて見たことない人がめちゃくちゃ泣いてるし。
「お前ェまで俺をおいて……クソっ……」
「ごめんね、テツさん……」
がっちりと抱きすくめられて、まだ全然塞がってない傷に響く。けど背中に回された腕がひどく震えていて、そのことのほうがもっと痛かった。
「怖がらせてごめん……」
「うるせぇ……誰が……」
いくつか吐かれた悪態がもごもごと私の肩口に消えていく。また新しくあたたかい水分が肩に触れた。
「謝っても許さねぇからな……」
「うん……」
「ぜってぇ許さねェ……」
「うん、いいよ……」
多分また同じことがあれば、同じことをするかもしれない。こればかりはその時にならなければわからないことだけど。でも徹郎さんだって、もしそんなタイミングに巡り合えば、自分が老いた身体にステージ後半のがんを患っていることなんて頭からすっぽぬけて似たようなことをするはずだ。彼のほうがもっと上手くやるだろうけど。
「ごめんね……」
首筋をチクチクしていた髪の毛が離れる。そっとベッドに戻され、漸くしっかりと徹郎さんの顔が見えたが、すぐにそっぽを向かれて前髪で表情がわからなくなる。
私はまたこの人がとんでもなくすごい外科医であること体感し損ねたみたいだけど、それで良いと思った。
「泣かせてごめん……」
「うるせぇ、これはな、歳を取ると前頭葉の働きが……」
「前頭葉弱ってる人を悲しませてごめんね……」
「悲しいわけじゃ……」
くそ止まんねぇと目尻を親指で拭って、意地っ張りとへそ曲がりと天邪鬼で60年以上の人生を歩んできて前頭葉のくたびれた男は怪我人から少し身体を離す。分厚くてカサカサの指先が頬に触れて、するりと手の甲が肌を撫でた。指に嵌められたおそろいの金属が少し冷たい。この人がこれを嵌めているのをはじめて見た。
「……つまんねぇだろ、お前がいねぇと」
「ちゃんと言って。泣くほど寂しいって」
言えるかバカ、とでも返ってくると思ったのだけれど。全部すっ飛ばした言葉を打ち返されて私は今度こそ心臓が止まるかと思った。縁起でもないね。この弟気質の甘えん坊は。
「言わなくたってわかるだろ」
そうだね、なんていう代わりに自分の指に嵌ったリングをなぞる。内側に刻まれた言葉を、どちらかが死ぬ前に言えたらいいね。