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「えっ、うそ。おいしい。そして本格的な味がする」
「前日から鶏肉を漬けてます、ヨーグルトに」
村の料理上手おばあ様に習ったというので疑ってはいなかったが、譲介の手からしっかり本格的な深みのあるカレーが作られると驚く。当のシェフは「あんたナン焼くのうまいな」なんて言いながらナンをもぐもぐしていた。ナンミックスを使ったことは黙っておこう。
改まって「カレーを教わったから作りに行く」なんて連絡が来て驚いたが、彼の状況は把握しているのでなんのために来るのかは言われなくてもわかった。買い置きのアルコールを勧めると「少しだけなら」とすっかり立派な成人男性となった譲介は言う。今日明日は我が家で休んで来いとK先生からお達しがあったらしい。
「昔」
と切り出されてカレーを飲み込むと「一緒に鍋したよなぁ」と過去を想起しているみたいだった。彼の昔はほんの数年前だ。同じ時間を生きているのに、時間の感覚は全く違う。実の親と再会したり、ティガワールの件があったりしたこの激動の数年間を思えば、そう言いたくなる気持ちももっともだ。
「闇鍋のとき?」
「ちがう。麻上さんと鍋パのとき」
「ああ」
成人女性二人で酔っ払った日か。双方にとって可愛い無害な男である譲介くんは大人のおもりをさせられていて大変そうだった。私と麻上さんのダメンズトークは大層盛り上がる。
「……来月、アメリカに行きます」
「そう」
譲介はかのクエイドで、医療を学び医者になる。その道を選んだ。本人は環境により得たチャンスだと思っているが、自分自身の努力がなければ、たとえ資質があっても辿り着けない選択肢だ。K先生のもとで、譲介は本当に変わった。TETSUや私では譲介をここまで変えることはできなかっただろう。誰と出会って誰と生きるかというのは、ここまで人生に影響を与えるんだね。応援してる、と心からのエールを送る。
「逃げかえりたくなったらいつでも連絡してね」
「あんたってほんと……」
期待で背中ばかり押されると息苦しいかなと思って言ったけど、当然気に食わなかったみたいだ。
「……ハグします?」
ちょうど練習しようと思っていたんですよ。と譲介らしからぬ提案に少し驚いた後、この少年……青年が、それなりの勇気でそう言ったのだと気づいた。
「する……」
抱きついた子供はもう立派に大人だった。少し置き場に迷ったあと、肩を包むように両腕がまわる。
「元気でね。気を付けてね。頼ってもいい人はちゃんと見極めてね」
「はい」
「ちゃんとご飯食べて適度に運動してしっかり眠って」
「あんたに言われなくてもわかってるよ」
わかってるのなんてわかってるよ。でも言いたいんだよ。わかりきったことでも、口にしたほうがいいって教えてくれたのは譲介である。
TETSUが会いに来たのは、譲介が発って数か月は経った頃だった。
「乗れよ」
と、家の前でエンジンがけたたましい音を立てる。毎度ご近所迷惑。郊外に引っ越そうかな。そうしたらまた合鍵を押し付けてやろう。
助手席に乗り込むとTETSUは「どこがいい?」とつぶやいた。「海」と一言断定したあと「あとコンビニ」と告げる。お仕事で昼ご飯を食べ損ねたのでサンドイッチとか食べたかったのだ。
車内に流れるのは、私の車とは全く違うBGMだ。グラムメタルの激しい曲が終わり、艶やかなハスキーが場を支配する。TETSUを見上げると、ほんの一瞬だけ彼はちらりとこちらに目線を向けた。長い前髪越しにそれがどんな意味を持っていたのかは知らない。いずれにせよ私たちには、お互いの心を慮らないでいる権利があった。そんなこともうやってらんないし。わたしがいくつになって、あなたももう何歳なのか、今更指折り数える必要はない。
時季外れの海は荒れていた。消波ブロックで潮が跳ねてフロントガラスを汚した。
「風が強いね!」
夏の間は海水客でにぎわうビーチには、私たちのほかには誰もいなかった。いや、かなり遠くで犬の散歩をしている人影が見えるな。海風に煽られて暴れる髪の毛を指で寄せる。浜辺には木の枝やゴミが打ち上げられている。一度くらい譲介と海に行けばよかったな、なんて思いながら波打ち際を辿ると、数メートル離れた先でTETSUがなにやら呟いた。私の名前を呼んだあとに。
「―――――――」
「え? なに? 聞こえない!」
風と波の音で、少し頑張って張り上げなければお互いの声は届かない。月も太陽もあったもんじゃない曇り空の下に、杖を突いた男が一人。高い上背を少し丸めて、いつの間にかすっかり痩せた恵体をコートに包んでいる。前髪とコートに風が吹きすさんでうっとおしそうだ。唇の端を持ち上げて少し笑いながら。
私の人生をめちゃくちゃに――めちゃくちゃで、ばかばかしくて、愛おしいもの――にしてしまった男はポケットに手を突っ込んで、もう一度言う気はない様子だ。仕方ないので適当に返事をしておく。海風にかき消されないほどの大声で。
「私も、愛してる!」
「こっ恥ずかしいやつだなお前は!!」
徹郎さんは大声を出して笑った。