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4-2

知らない番号からの電話だった。

無視しようと思ったけど、こういうことしてくる人に一人だけ心当たりがある。なにかあったのだろうか。彼か、あの子か。ひどく胸騒ぎがする。

通話ボタンを押すと、男の人の声がした。予想していた男のものではない。低いが掠れていない、少し固い青さの残る、張りのあるバリトン。

『神代です』

「ええと……」

『……ドクターKです、ナマエさん』

「K先生……!?」

年単位で会っていないので声なんてとっくに忘れていた。KEI先生と比べると関わりなんて無いと言っていい人だ。当然番号なんて教えてない。ああいや、あの時この人だか一也くんだかに名刺を渡したりしただろうか。ばら撒き癖あるからな。もう覚えてないや。

『譲介があなたの名刺を……すみませんが、これから少し会えますか?』

「譲介? ……いま譲介と居るんですか?」

『我々はいまからT村へ向かいます。落ち合えますか』

「かまいませんが……、譲介になにか……?」

『大丈夫です。私が保護しています』 

ドクターKが譲介を保護している事実以上の一大事があるのだろうか。説得しきれなかったあの日の言い争いが生々しく脳裏によみがえる。全部起きてしまった。一番最悪の想定が。

「……行きます。譲介を、お願いします」

街灯も碌にない、ヘッドライトの反射でシカの目だけが光る曲がりくねった山道を車で登っていく。あまり良い道ではない。ここを通るのは数年ぶりだが、相変わらず辺鄙なところだ。

 月すらも暗い闇の中で、診療所の灯りだけが夜を照らしている。

 診察室に入ると、K先生は目くばせだけして私と廊下へ出ようとしたけど、彼のマントを譲介が強く握っていたので、動くことができなかった。小さな子供みたいに。

 私の姿に気づいて子供はごし、と目を擦る。事情も説明も全部すっ飛ばして、最初に告げられたのは私からの一方的な言いつけを反故にしたことについてだった。

「アンタにかけようとも思ったけど……僕……」

出来なかった、と。少年は泣いていた。声を震わせて、唇を強張らせて。

私がどうしようもなくなったとき。

私には仕事があった。KEI先生がいて、一巳くんたちが居た。誰もいなくても自分で家賃を払っている家があった。もし稼ぎがなくても、福祉にも頼る術を知っていた。一人で寂しい夜も、やり過ごせる方法を知っていた。傷と孤独を飼いならして友達にするやり方を知っていた。知識や経験が全てを裏打ちしてくれた。
譲介にはなにもなかった。TETSUが居なければ、家はない。お金もない。家族も友達も頼れる人もいない。ギリギリ頼って良さそうに耳障りの良いことを言った人間も、あの時彼に背を向けた人だ。信頼できるわけないよね。夜を乗り切れる方法も知らない。残されたのは身体と心で、孤独はただひたすらに敵だった。

子供の無力さをよくわかっていたつもりなのに。

人生は選択の連続だ。つまり、選び取っていないのであれば自分の人生とは言えない。と、いつだかTETSUが言っていた。一緒に映画を見ていたときだったのかもしれない。バック・トゥ・ザ・フューチャー三部作をまとめて観た日だったか。違うな、「生きる」観て妙にセンシティブな空気になったときだっけ。いや教育番組見てた時だったかも。

とにかくいつか言っていたそれは、はたしてどういうつもりだったのか。あの人って自主的に闇医者やってんだっけ? そういうの、知らないな。聞いても答えてくれないし。

トーラス型のドーナッツのようだ。外周ばかりは不健康で欲望を掻き立てるけど、真ん中だけはどこにも無い。ただ外側の魅惑的な悪徳と虚構から真ん中の形を想像するだけだ。ブラックホールの観測に近い。イベント・ホライゾンの存在だけがただそこに「無い」と証明してくれるような。TETSUが選ばなかったであろう道を想像することでだけ彼の輪郭が浮かび上がる。

ドクターTETSUは、譲介とともに生活し続ける道を選ばなかった。

そうしなければ今度は譲介が「選べなくなる」から。







「彼を保護してくださってありがとうございます」

ダイニングテーブルの向かいに座って、K先生に頭を下げる。譲介は疲れ果てて眠ってしまった。テーブルの上には先生が手ずから入れてくれたお茶と、TETSUが送りつけてきたという通帳と手紙がある。普通郵便でこんなもの送るな。しかしまぁ、あの人がやりそうなことではある。

「あの男はいまどこに?」

「その……私1年以上会ってないんです。TETSUさんとは……」

「……教育方針で揉めたとは、聞いていますが」

「えっ、譲介から?」

「いえ、ドクターTETSUからです」

そんなバンドの解散理由みたいな言われ方されてたのか。

正直に白状すると、教育方針で揉めたのはあれが初めてではない。ふたりとも欠けた部分はあるけれど一応大人なので、なるべく揉める姿を見せないようにと配慮していただけだ。あの繊細で大人の顔色をよく窺う子にとって、周りの成人が怒る様はひどく負担だろう。

「……あなたが居たらこうはならなかったかもしれないとも」

「それは……あんまり関係ないと思いますが」

レジオネラ肺炎でお見舞いに行った時の譲介を見ればあきらかだ。こまごまとした私の色んな配慮なんてもうどうでもいい。私は感情的なまま譲介に背を向けた人間なんだから。

「私はあの子にとってTETSUのおまけみたいなものだから。……二人して置いていって、憎まれてますよ」

私と譲介はそれぞれTETSUの両足に捕まってるようなもので、もう片方がいなければTETSUを独占できるけど、二人でなんとかTETSUを引き止めなければいけない、運命共同体だった。当のTETSUはふたりとも振り払ってしまったけれど。……先に手を離したのは私だし。それはひどい裏切りだった。

それに、私は自立した社会人で譲介少年にはTETSU以外に縋れない。彼はTETSUに家と居場所と生活すべてと目標を用意され、3年近く一緒に暮らしていたと言えるのだから。ダメージの大きさも種類も違う。生きていい場所と生き甲斐全てから振りほどかれた譲介を立ち直らせるのに、私はいないほうがいいだろう。彼のことをこれ以上傷つける訳にはいかない。

「それでも、彼から逃げてはいけません」

「……!」

K先生はぴしゃりと言った。怒っていた。当然だ、こういうときにきちんと正しくあれるから、TETSUは彼のもとに譲介を置いていったのだろう。殆ど弱音にも近い告解を吐露したらしき様子からも、彼からのK先生への信用がよくわかる。

「私はあなたにも、あなたの弁えたような態度にもなにひとつ同情はできません。あなたはあなたという個人で、あの子と向き合うべきだ。譲介はいま非常に混乱している。それはあなたたちの混乱をそのまま写した形です」

正論ド詰めでぐうの音も出ない。耳が痛い。たっぷりと叱られた後、最後に少し柔らかく、穏やかな低い声が続く。そういうところは本当にKEI先生を思い出す。

「置いていかれる子供の気持ちを考えたことはありますか」

 嫌って程身に染みてわかるよ。
 
 だから空中ジャンプ上Bで復帰する方法もよく知っている。



 数日して譲介が落ち着いたころ、K先生が会わせてくれた。なんか離婚夫婦の面会みたいだった。助手席に乗った譲介は、ついでとばかりに麻上さんが託してくれた買い物メモを見ている。気負わず遠出できるよう配慮してくれたのだろう。あの診療所いい人しかいないのかな。

譲介はまだ少しぼんやりと現実感のない顔をしていた。私を見て、でもなにも言わなかった。「住み込みで教えてもらうことになったんだ」と簡潔に報告して、それきり黙ってしまう。
沈黙が気まずくてカーステをつけると、不似合いに明るいパーソナリティの声が寒々しく車内に響いた。
このままだと本当になにも言わずに時間が過ぎてしまう。曲の切れ間に出した声は上ずっていた。

「あなたになんか言わなきゃいけない気がして、えっと、一応手紙を書いてきたんだけど」
「…………」
「完璧に名文が書けちゃったからそれは別途郵送しておきました」

気もそぞろと言わんばかりにぼんやり窓の外を見ていた譲介が驚いてこちらに視線を向けた。

「なんなんだアンタ! なにしに来たんだよ!」
「いやもうほんとにね……」

名案だと思ったのだ。投函してから「会うの明日じゃん」と気づいてしまっただけで。私だってまだ混乱してるんだから。

「……なんであればいいのかな。譲介は私に何でいてほしい?」
「知らないよ。好きにしろよ」

 それならまぁ、好きにさせてもらおうかな。もうだいぶ好き勝手してるか。

「譲介に……は、元々好かれてないけど、これ以上嫌われるのはつらい」
「……別に。あんたが僕を気にかけてることくらいはわかる」

 道路の端に鹿が居た。もしかしてこのへん熊も出る? 我が物顔で道路を横切る偶蹄目を二人で見送る。再びアクセルを踏むと、次に口を開いたのは譲介だった。

「最初にアンタとTETSUを見たとき、アンタのことバカにしてた。男の後ばっか追いかけてさ」

自分とTETSUが周囲からどう見られてるかは大体わかってるけど、評価に手心がなさすぎる。素直な奴め。……違うな、素直になったんだ。なることにしたんだね。

「でもたぶん違うんだよな、あんた達って」
「どうだろうね、だと良いけど」
「僕もそうなりたかった……」

でも僕じゃだめなんだ。振り絞るような苦い声だった。

僕じゃだめ、私じゃだめ、最近はそんなのばっかり。「オレじゃだめだ」と消えた男の二の舞いしてたら笑えない。自分じゃだめ、お前じゃだめ、不適格、不適当、伸びしろがない。成長性に期待できない。素行が悪い、口が悪い、育ちが悪い。理想的じゃない、扱いづらい。規格が合わない、組織にそぐわない、隣にふさわしくない。だから要らない、と。飽きるほど言われてきて、そんな言葉知るかと思って、今までは無視をしていればよかった、見ないふりをすればよいのだと思ったけれど、それじゃ無かったことにはならないのだ。ちゃんと否定してあげないと、目を逸らしているだけじゃ肯定と一緒だ。

おんなじことで散々傷つけられたのに、言葉が足りなくて傷つけてしまっては世話ないね。

「私はTETSUみたいに闇のスーパー外科医じゃないし、でもそこに引け目を感じたことないし、変えたいとは思ってない」

 譲介は自分を変えたいんだろうけど。こちとら数十年これでやってきた生き方が今更変わるわけでもなし。私も、TETSUも。

「だってTETSUあんなじゃん、いい年して全然子供みたいで、勝手だし報連相できないし自分の都合しか考えないし、中学生に自殺幇助させようとするのとか、高校生急に引き取るのとかほんとあり得ないし、大事なこと全然言わないし外科医やるのとお金払うの以外の気持ちの示し方できないし」

あと機嫌が悪いと黙り込むし、都合のいいときだけ触ってくるし。髪の毛乾かすの下手だし。皮肉屋でたまに本気でムカつくし。着た切り雀なうえ、几帳面なくせして靴下だけは絶対裏返しで脱ぐし。

私はずっと怒ってたのだ。いい年して直情的な割に直接的に適切に怒りを処理できず、危険認知はあやふやだし男の趣味は最悪で一発で身を持ち崩すほどに恋が下手で、好きな男が死にかけてもなにもできることはなく、中学生巻き込んでも高校生引き取っても後手後手で横から慌てることしかできなくて、相手も自分も、それ以上に眼の前の子供すら巻き込んでは大切にできず、ぼろぼろのコミュニティを取り繕うこともできず、そこまでバカやった上でとうとう一度も本名不詳のあの男にあんたを愛してるって、人生めちゃくちゃにしてもいいくらい愛してるんだって言えてない自分が、情けなくて腹立たしかった。譲介に、いまからでもやり直せるとか、意外とあんた悪い子じゃないってとか、あんたにふさわしくないものなんか無いんだって言えてない自分が。ここにあの人はいない。けど譲介は居た。まだ間に合うのだ。どうせ関係が破綻するなら伝えたいこと言って終わらせたほうがまだ良かった。バカバカしくて恥ずかしくて、だからいままで誰もこの子供に言わなかった陳腐で普遍的な言葉を。

「譲介が大事だよ。どうやって大事にしたらいいかわかんないけど」

 車はもうほとんど山を下りていて、国道の赤信号に停車する。右手に個人商店、左手には山肌。あと20分も車を走らせれば道の駅がある。FMを流しっぱなしのカーステからは、古い曲がゆるやかなメロディを流す。たゆたうみたいに響くエコー。信号が指し示す青に車を前進させると、譲介がぽつりと呟いた。

「一応考える頭あったんだな、アンタ」

しばくぞ。シリアスさせろ。そういう斜に構えた姿勢やってるとTETSUみたいになるからな! 

「何も言わないからって何も考えてないわけじゃないのは、あと人でよくわかってるでしょ」

だからってこんなとこまで来て、二人してあの人のだめなところを見習う必要はないのだ。TETSUはあの通り年季の入った中年だし、こっちもこっちでとっくの昔にいい大人で、譲介もそろそろ年齢上は子供ではなくなる。全員が全員、身中にいる小さい頃の自分を永遠に慰め続けなければいけない病にかかっちゃってるが、それはもう自分たちでなんとかするしかない。獅子だって身中に虫飼ってるんだから、人間の心にバグがあったってかまうものか。

「お互いの気持ちなんてわかるわけないよ、大事なこと全然話してないんだし」

人生ややハードモードだし、悲しみをバネに頑張ってると思われるのは癪だし、可哀想がられるのには飽きてるし、うんざりするのにもうんざりしてて、取り繕うのにも疲れている。

「向き合って辛ければなぁなぁにして逃げてもいいけど、逃げベタだと私みたいになっちゃうよ。あんたのことなんもわかんないけどさぁ譲介、たぶん私のことなんか嫌いなんだろうけど、だからって私まであんたのこと嫌ってやる義理なんかないし、幸せになってほしいってずっと思ってる。そういう人間もいるんだよ、あんたがどんだけ嫌がっても」

車は道の駅へと着いた。広い駐車場にまばらに停められた車たち、そのひとつひとつに人間が乗っていて、当然ながらそれぞれの人生がある。人の数だけあるバリエーションのうちに、私たちみたいなのがあっても許されるはずだ。

「ご立派な演説だったな。アンタそんな長く喋れたんだな」

 シートベルトを外して、譲介が伸びをする。あんたのそういうとこホント可愛げがなくて。

「ホント可愛げないけど、あんたが可愛くなかったことなんかないよ、譲介」

 たぶんどころか100%、あの男もそう思ってるよ。