1-2
さっきまで何してたか、情報量が多くて忘れてた。戻ってきたばかりの意識で直前の記憶を掘り起こす。警察署から記憶がはじまり、病院、デパート、そして廃病院と走馬灯みたいに時系列が巡行していく。
「おい、起きてんだろ」
そしてここはどこなのか。冷たい床、反響する声。
重いまぶたを開くと、視界は深いグレー一色。床だった。体の節々が痛いので、起き上がる元気がなかなか湧かない。
「…………どこ?」
「知らねェよ」
床が寒いので手を付きたかったが、うまく動かせなかった。数センチ体を起こしてすぐにべたんと倒れる。後ろ手になってる腕を見返ると、我が細腕にがっちりと手錠がはめられていた。
「ゎぁー……」
人間驚くと一周回って呑気になるね。後ろ手に拘束されて床に転がされるなんて、フィクションではよくみるけど自分の身に降りかかるのはごめんだ。
痛む体に鞭打って、バランスを崩しながらもどうにか座位へと身体を起こす。
ドクターTETSUの方は壁際に座っていた。ていうかそうするしかなかったみたいだ。両手を封じるのは私と同じく手錠だが、その鎖を頑丈そうな金具で壁に固定されている。両手を上げるような形。手を上げて大人しく座っとく以外のことができないようになっている。トレンチコートは剥ぎ取られたのか、私よりもっと寒そうなノースリーブ姿だ。
「……なんであなたはそんな雁字搦めなの?」
「……暴れたからな」
暴れたんだね、そうなんだね。そりゃそうなるよ。
後ろ手のまま立ち上がるのが億劫で、足をずりずりすべらせて壁に近寄る。壁に背中を預けて胡座をかくTETSUの横に、同じく壁にもたれて座った。床も壁も冷たくて寒い。
「……グルじゃねぇのかよ」
「なにとですか?」
「知らねェ。心当たりが多すぎる」
わかんないけど、あなたの心当たりのどれとも関わりないと思うよ。ないといいね。多分ないよ。
「おい、こっち向け」
「?」
言われて顔を上げたので、うつむいていたことに今気づいた。落ち込んで見えただろうか。じっとまっすぐこっちを見てきて、困惑して目をそらす。「こっちを向けって」と再度言われて、おずおずと視線を向ける。じろじろと睨めつける様は、どうやら瞳孔とか顔色とかを確認しているらしかった。
「痛いところは?」
「……全身、うっすら」
「頸動脈絞め落とされて、適当に運ばれたんだろうよ。目眩や頭痛がねェならいい」
「それは多分、大丈夫だけど」
頸動脈って。気絶の仕方にビンゴがあればそろそろリーチかも。このペースとバリエで気を失ってたら早晩二度と目覚めなくなりそう。
「乱暴……。クロロホルムとかそういうのがセオリーじゃないんですか?」
「こういう時クロロホルムやエーテルで眠らせるなんざドラマの中だけだ」
この手のプロはもっと違うもんを使うんだよ、と手品のネタを喋らされるみたいな鼻白んだ声音でその手のプロっぽい男が言う。
「し、知りたくないかも」
明日使えない無駄知識だね。ていうかエーテルって何? アリストテレス?
「忘れとけ」
快諾。首肯したところでゴウン、と音がする。私が首を縦に振るオノマトペではもちろんなく、鉄の扉が床に擦れながら重く開く音だった。
「見つめ合って、お熱いですね」
入ってきた男は、この部屋より寒いセリフを宣う。いまので心身ともに完全に冷えきった。そろそろ凍えて震えそうだ。トーンダウンした声、うんざりみたいな雰囲気を出してTETSUが相手をしてやる。
「…………おめぇかよ」
「お誘いに快諾していただけないもので、少々手荒な真似をさせていただきました」
いかにもというような鯱張った不愉快な態度に、横の男のテンションがすーっと冷めてるのがわかる。引いてる引いてる。TETSUに何を断られたのか知らんけどこういうとこが悪かったんじゃないの?
「まったく、金には糸目をつけないと言っているでしょう」
「あっちのほうの依頼を先に受けてんだよ。残念だったな」
こちとら信用が大事なもんでね、と大してそんなこと思ってなさそうな声でTETSUが言う。これ私聞いてていい会話? 抜けようか? いいからいいから送らなくていいから全然自力で帰るから、一旦帰らせてほしい。ちょっと身じろぎした私を見咎めて、スーツの男がこちらに手を伸ばす。
「っ」
「オイ、そいつは関係ねぇ」
「あなたの根城にいたのに?」
「知らねぇよなんか居たんだよ」
まさしくその通りである。TETSUからしたら家に押しかけて来た不審者のようなものだ。けれど当然相手は納得するわけもなく、手袋に包まれた男の手が私の胸ぐらを掴んで、ぐいと引き上げる。
「存外地味な女性がお好みなんですね」
「オイ、舐めてんじゃねぇぞ!」
そうだそうだ! と同意したいけど苦しいし絶対ろくなことにならないので言わない。
「こんな色気もねぇぼさっとした女全然好みじゃねえ」
「そっちかよ! ぐえっ」
ほとんど脳を通さずに反射で突っ込んでしまった。大声が癇に障ったのか、掴まれている胸ぐらをぎりりと締められる。この件、TETSUと私で責任の歩合は7対3くらいなんだから、かばってくれてもよくないか。私の取り分3はTETSUのこと油断させ罪と足引っ張り罪です。
「…………まぁいいでしょう。うちの若いのは血の気が多く、飢えた野良犬のような下品なやつばかりです。貧相な女と男盛りの美丈夫と、どちらが人気でしょうね」
あんまり自分の手下とかをそういうふうに言うの良くないと思う。ていうかTETSUも? いまTETSUさんも貞操狙われてる? ていうかTETSUさんメインで狙われてる? この流れでそういう展開なことあるんだ。
横目でちらりと見たら苦虫を五、六匹噛み潰したような顔をしていた。心なしか前髪もしなっと元気がない。自分のことを棚に上げて、ちょっといい気味だと思った。どう考えても人のこと笑ってる場合じゃないけど。
私の胸ぐらを乱暴に解放して、男は楽しげに、鼻歌交じりで部屋を出ていく。私に厳しくないか。脳は現実逃避をしてるけど身体はダメージを受けて咳き込んだ。安心できる場所のフカフカのベッドでゆっくり寝たい以外の欲求がない。いつまで強がっていられるかは自分でも不明だった。
この手の修羅場ノウハウを求めて、男盛りの美闇医者を縋るように見上げる。ばっちりと目があった。余程私の顔が情けなかったのか、少し言葉に詰まったようだ。
「…………安心しろ、策はある」
嫌いな上司に押し付けられた仕事ほど嫌なものはない。監視カメラの見張り役なんて尚更だ。カメラ越しでも上司はむかっ腹のする男で、画面越しに中指を立てる。部屋からその嫌味な男が出ていったあと、カメラ越しの男女は、何を話してるかわからないがなにやら顔近づけている。自分よりも年上の男と、自分よりも年下の女。経緯は知らないが、上のご機嫌を損ねた二人らしい。オッサンと若い情婦か。その辺にいそうな地味な女だが見た目じゃわからないものだな。
「おっ」
退屈な見張りだと思ったが、女のほうが男の膝の上に乗り出したので、途端にやる気が出てきた。こんな状況で盛りだすなんて、こいつらラリってるのかもしれない。どちらも両手を使えないので、女はもたれかかるみたいに身体を擦り付けている。ブラウン管越しのすべてが点で打ち出された世界ではよく見えないが。
女は身体をひっくり返して、今度はカメラに向き直る。後ろ手でモゾモゾ身じろぎしながら男に背中を預けていて、手元は何してるか見えないが、男の足の間にあるのは確かだ。ここからじゃ死角だ。クソ、上の奴らカメラケチりやがって。一台じゃなんも見えねぇじゃねぇか。無駄とわかりつつも首を傾げて覗き込んでみては、当然変わらない画角からバカにされてる気分になってくる。とにかくすべてが気にくわなくてむしゃくしゃする。先輩にこの道へ誘われた時、もっといい人生を送れると思ったが、その結果がこれだ。じじいと素人女のまぐわいなんて「面白そう」と思ったときの感情がピークだ。この種の出来事にありがちな定型として反応しただけで、あとは指をくわえてみてるだけの単調な時間。俺の人生はいつもこうだ。これが今後の人生ずっと続く。うんざりしてきた。
画面のバカどもはこんな死か死かあるいは死しかない状況でものうのうとしていて、やはりバカなんだろうけどムカつくほど羨ましくもある。いややっぱムカつく。俺は困窮してるのに、俺よりも絶体絶命なコイツらはなんでこうなんだ。あまりに理不尽で全部ぶち壊したくなる。親父を殴り、おふくろを殴り、妹を殴った日のように、カッとなって全部めちゃくちゃにして逃げ出したい。
神は皮肉なことに、汚ねぇ軍手をはめた俺の手元にあの部屋の鍵を握らせていた。
どうせ神なんかいないけど。
「ぜ、全然開かない」
「そっちじゃねぇ、もっと右に回せ。何だお前不器用だな」
「これ出来たら普通のOLやってないです……」
指示をされながら後ろ手で解錠するスキル、人生のどこに必要なのか。ここか。いや無理だから。
「そう、そこだ。突っ込んでまわせ。おいそこ触んな擽ってェ」
「む、無理ぃ」
バンザイ拘束されてるTETSUの腕に触れれば流石に監視カメラに対して誤魔化しが効かない。となればまずは私の手錠を外してから、私に手錠を外させるのがスピード面では最適解。いくら私が不器用とはいえ、後ろ手よりも両手フリーのほうが彼の手錠を外しやすいだろう。ふたりとも手が自由になったとて、ドアの鍵はどうするの? と思ったが「そこはなんとかなる」と自信満々だった。そういうわけで、指示されるがままに男の上に乗って、身体でカメラを塞ぎながらTETSUの靴の隙間から教えられる通りに「合鍵」を取り出す。業界シェア率の高い手錠の鍵は予め仕込んでいるらしい。そんな馬鹿な。と思ったが、確かに保険としては簡単で確実だ。この程度のピンチは慣れている風である。
身体を密着させているので、どうにもうまくいかないし不用意に他人の体に触ってしまうのも褒められたことではない。身動きが取りづらい。どうにかこうにか鍵穴に挿して捻ると、背中からかちゃりと解錠の音がした。
「下手くそ」
「面目ないです……」
ふぅと深いため息をつかれる。わたしにも責任の一端はあるとはいえ、基本的にこの人に巻き込まれてるはずなんだけどな。おかしいな。
首を傾げていると、鉄のドアが静かに開いた。人目をはばかるようなゆっくりとした動作、だが建付けが悪いのでそれなりにきしんだ音を立てて、スポーツ刈りの男性が部屋にはいってくる。こちらを睨めつけるように見て、ろくでもないこと考えてそうな顔でにやついている。
「お楽しみみてぇだな」
この組織ってこのタイプしかいないのかな? なんというか、こう、ベタというかコミカルというか。近づいてきた男は、汚い軍手をはめた手で私の顎を持ち上げる。
「俺とも遊んでくれよ」
何か言おうと思ったが、その瞬間男の体が眼の前から消えた。吹き飛んだ。長い脚で蹴り飛ばされたのだ。油断してたのか、飛距離はゆうに5mはあるだろう。
「よしきた! ズラかるぞ!」
「……えっ! これが策? 場当たりすぎない?」
「脱出できさえすりゃいいんだよ!」
慌てて小さな鍵を拾い上げてTETSUの手錠を外す。解放された腕を確かめるようにぐるぐる回して「よし」と呟いたあとひょいと私を抱える。肩に。ロマンチックにお姫様だっことかじゃなくて米とか担ぐときのやつ。
「一旦引くぞ」
「えっ」
空いてる右手が、異変に気付いてやってきた見張りを殴り飛ばす。100m走10秒の壁越えてそうな速さで走り、スポーツ刈りが開けたドアから飛び出る。でっかい人のすっごいスピードをもろに受けて、人間の振り幅にひれ伏した。身体の出来が違うとこんなにも強度が違うものか。
「うしろっ!」
「!」
背後から向かってくる新顔の男に長いリーチでズバンと蹴りが入る。ヒットのたびに身体が盛大にシェイクされるので気持ち悪い。悲鳴と嘔吐を抑えるために口をギュッと引き結んで衝撃に耐える。
チュン、と速さと硬質さを兼ね備えた音が廊下に響いた。
「チッ、銃かよ」
「し、しぬ……!」
「即死以外はどうにかしてやる」
「即死以外でも痛いのは嫌なんだけどっ!」
その瞬間TETSUが階段を飛び降りたので、着地の衝撃で舌を噛んで悶絶した。痛いのはマジで最悪。
意識が混乱と狂気で朦朧としている間に、我々が捉えられていた廃工場は遠くなる。案外あっけなかったな、と思うけど、ほぼTETSUに抱えられてただけなので情報量の多さを処理しきれてないだけかもしれない。途中、法定速度を遵守してた幌トラックの後ろに飛び乗るくだりもあったけどこの辺になるともう肉体と自我が乖離していて「映画じゃん」と思った感情しかない。幌の中に押し込まれて、次いで大男が入ってくる。大きな建築資材の隙間に忍び込むには体が大きいと不利だね。
「おい、まだ生きてるか?」
「……さむい……しぬ……」
「よし、元気だな」
何て男だこいつは、とこの時はじめて思った。
疲労と隙間風でグロッキーな私をでかい身体が引き寄せる。人の熱があったかい。
私がウトウトしだしてからしばらく経ち、どこかでトラックが停車した。TETSUに促されてこそこそと幌から降りる。
朝焼けの薄闇のなか、公道の青い標識に書かれた地名が見えた。
「富山だ」
「…………」
ってことは向こうに見えるあの山、北アルプスか。こういうシチュエーションでも山って感動するくらいきれいですごいね。朝日を浴びてキラキラしてる。
「お前金あるか?」
「……ない」
廃病院にいたときはカバン持ってはずだけど、そこに置き忘れてきたか、あるいはさっきの廃工場に置いてきたか。
肌寒い時期に無一文で放り出されて、なんなら片方はノースリだ。さむそう。コートあっても寒いでしょその姿。
「……仕方ねぇな」
すっと足を一方へ向けて歩き出す男についていく。TETSUは迷いも淀みもなく一番近場の駅へたどり着き、停めてあるタクシーの窓をノックする。眠そうにしていた運転手が慌てて後部座席のドアを開けた。この時期にタンクトップ姿な大男と、寒さと疲労でぐったりしている女に訝しげな視線を向けたが、詮索することなく前に向き直って「お客さん、どちらまで」とぶっきらぼうに告げた。同じくらいぶっきらぼうにTETSUが答える。
「○○地区の墓地まで」