過去現在
主な副作用には、腎肝機能障害脱毛、血栓症、下痢、それから嘔吐があるという。
男が珍しく普段と違うサイクルで家に来たかと思ったら、トイレを占領してオエオエしているので、私はリビングのソファで音ばかり大きくて一切脳に入ってこないバラエティを見ている。
ようやく落ち着いてきたあたりで、そのままユニットバスのシャワー音がしばらく響く。水音が止まったあたりで、不安とともに抱えていた膝を解放した。TETSUが弱った自分から目をそらしてほしいように、私もあの男が気になって不安で怖くて怖くて仕方ないのを気づかれたくなかった。
グロッキーという単語の代表格みたいな様子でのそのそバスルームから這い出してきた男に「寝るの?」と声をかけたが、むっつりと黙りこくって返事はない。もしくは返事する元気もない。そのまま寝室のベッドに巨体がもつれ込んだ。不調と不機嫌と不憫な男の体重で安物の寝台はぎしりと大きく揺れてダメージが入り、HPがまた少し減ったようだ。ずっと思ってたけどいよいよ壊れるかも。
なにしに来たんだろう。
闘病するようになってから、風来坊で神出鬼没な男の生活リズムは比較的わかりやすくなった。少なくとも私が見える範囲からは。薬物治療によるサイクルと、仕事と、その他諸々の用事で埋まった彼のスケジュールのなか、私に構えるような暇な時間はほんの少しだ。ていうかあるのかな? あるから今ここにいるのかもしれないが。
洗面器にビニール袋と新聞紙突っ込みながら、テレビを消して開けっ放しの寝室に行くと、ベッドの上で手負いの獣が丸くなっていた。
ふー、と息を吐いてさてどこで寝ようかソファかなと考えていると、この状態でもそこまで力があるんだ? というような力で、伸びてきた太い腕がぐいと引き寄せる。ベッドの中の男は、サボンフローラルな私のシャンプーの香りに混じって据えたニオイがした。
なにしに来たか尋ねたところで、甘えに来たとは絶対言わないだろうし、本人も気づいてないんだろう。
苦しいんだろうな。苦しいって素直に言えないのどんな気分?
……こういうとき私みたいな女のとこにしか行き場がないのってどんな気分?
予定分かんないのほんと困る。いや私もそういうとこあるからお互いさぁ、とゴネたらつけだしてくれたカレンダーのスケジュールを見れば、なるほど今日の彼は心身共にもう閉店ガラガラ清掃中だろう。明日は午後からT村らしい。双方他人との共同生活は赤点なので「スケジュール共有したほうがやりやすくない?」とか「生活の細かいルールってあとから揉めないためにあるんだね」とか中学生みたいな気付きを一個一個している。最近のNew tipsは「気付いたほうがやる形にしていたらTETSUばかり割を食う」である。なんかごめんね。
とはいえ喧嘩になることは殆どない。なぜなら私のことが可愛くて仕方ないから、というわけでは勿論なく、この人もうあんまり喧嘩する元気もないのだ。
「苦しい?」
「……あ〜……」
あのとき聞けなかった私の問いに、「きちィ……」と言いながらソファに沈む男。脱水やらを補うための点滴パックはまだ中身がたくさんあって、これがある間この男はどこにも動けない。これ幸いと隣に座りノートPCを広げてると「コーヒー……」と小さく鳴き声がした。黙ったまま居ると、彼なりの「Please」が付け加えられる。
「…………くれ」
うーん、35点……! と思うけど、私に対して「欲しい」が口に出せるようになっただけ及第点か。と思い直して仕方なく座ったばかりの腰を上げる。コーヒー飲むと吐くときのニオイとかマシになってちょっと楽だよね。
最初の頃は「書けねェ予定だ」と言われ空白の多かったカレンダーにも「健診補助(T村)」とか「Kの助手(K県)」「仕事(大阪)」とか「往診(あさひ学園)」「日帰り遠足付き添い(◯◯保育園)」とかの予定が増え、本格的に闇医者は廃業傾向らしい。一時は医師生命自体を諦めていた男を説得してお医者さんで有り続けさせたK先生と譲介はすごい。おかげで見た目だけが怪しい経験豊富なおじいちゃん先生が出来上がりつつある。
余所では「最初はちょっと見た目が恐かったけど優しくていい先生だね」「車がでかい」「カッコいい旦那さんねぇあんな色男ならちょっとくらいオジンでも許せるわよねぇ」「ロックとか好きそう」「テツ先生すげぇ! 俺のラジコン直せた!」と概ね老若男女に好評で「奥さん幸せ者ね」なんて言われる度にごめんね実は入籍してない……と思いつつ「そうですよねぇ」なんて素直に笑顔で応えてしまう。
そんなステキな老美丈夫は今「少し気が強くて彼を尻に敷いてる歳下の奥さん」からコーヒーを受け取り、飲まずにそのままテーブル置いた。欲しいのと飲みたいのはまた別の気分なのだ。膝には、同棲していない間に気づいたら飼いだしていた黒猫が丸まっている。きつくてたまらないはずなのに、毛並みを撫でる手つきは柔らかく優しい。まったく、すぐ色々拾ってくるんだから。私も譲介も、愛猫も。
私はミルクを入れたコーヒーを啜って、ようやく革張りのソファに身体を沈めた。
「譲介、クリスマス休暇はまた帰れないって」
「当直に入るんだろ」
細かいところでスケジュールのフォローに入っていたら別のとこで無理が効きやすいのはどこの国でも一緒らしい。いつでも日本に飛んでけるようなポイントを彼はコツコツと貯めている。時間を見つけてビデオ通話くらいはできるだろう。
「今年も24日のクリスマス会から参加するんだよね?」
「去年ガキどもに約束させられたからな」
慈善家ドクター・ゴッド・ファーザー枠で昼間のクリスマス会に参加しているおぢぃちゃんがみんなのサンタさんって知っているの、果たして今何人くらいだろうか。高学年あたりは大体予測がついているだろうが。
私も去年、プレゼントのこっそり搬入手伝い(お医者さんの仮面を被ったサンタクロースさんのアリバイ作りとも言う)で少し顔を出したけれど、施設の子からも職員さんからもかなり信頼されていて、その期待に応えるように大人な顔をする男に、まだまだ私の知らない一面がたくさんあるんだなぁとみっともなく嫉妬したのだった。
うー、と唸りながら、立派な頭蓋骨がとんと私に凭れ掛かる。長い髪が首筋に触れてちくちくする。病の症状と薬の副作用と老いの疲労の間で身動きが取れなくなった男は、目を閉じて深く息を吐いた。この頃は体調の良い日のほうが少ない。キツさメーター10段階評価で1の日はほぼなく、2〜3を行き来しながら、たまに6~8とかでガクンと倒れ伏してる。それ以上はK点超えとみなしてK先生に通報することにしている。今日は4.5って感じで、普段よりきついが家で蹲って嵐が去るのを待つことだけしかできない。時々「こんなに辛い思いをしてる人を引き止め続けるのは正しいのかな」なんて不意に不安がよぎるが、TETSUからしたら「俺の痛みでヒロイズムに浸るなよ」って感じなのだろうから考えないようにしてる。
「夕飯おうどんでいい?」
「…………」
ウー、という唸り声の隙間で口にした肯定はともすれば「うん」って言ってるように聞こえた。可愛いね。柔めに煮てあげよう。
体調の良い日のTETSUがたまに作るご飯が好きだ。自分は大して食べないくせに、冷蔵庫の中身に合わせて大抵のものは器用に作る。闇医者ってやつはなんでもできなきゃいけないんだろう。腕一本でやってけるものでもないのだ。
そうして病はそんな彼からできることをどんどん剥奪していく。
ドクターKもこうだったのかな。
「はぁー……」
陸の上で溺れてるみたいな呼吸は、そのまま苦しさを表しているのだろう。ずりずりと体重がかかってきてちょっと重い。
神代一人氏がかなりかなり本当にめちゃくちゃ熟慮と譲歩をして、患者兼医療従事者として診療所やその付近に住まないかと言う誘いをしたのは譲介のためだった。あるいはいくつかの付き合いの長い会社や組織から産業医やらで来ないかという話や、製薬会社の研究職やプロフェッサーだとか、そういう用意してもらった席はすべてドクターTETSUに対する純粋な好意や評価だ。叩けば埃が出る男だが、それ以上に医療への誇りに、知識技量やその研鑽に価値を見出したのだ。勿論相手によっては打算も十二分以上にあるだろうが。
玉石混交のそんなのラブコールを「今更飼い犬なんぞやれるか」なんて言ってひとつひとつ蹴飛ばした時はさすがにこの人の意地っ張りも堂に入ってるなとむしろ感心したものである。弱っていく自分を見られたくないし、同情もされたくないのだ。
私に対してのそういうのは、どこかの段階で全部どうでも良くなってしまったみたいだけど。それがいいことが悪いことかはわからない。
「プリン食べる?」
「ン……」
「……どいてくれないと取りいけないんだけど……」
「いらねェ」
ぐぐ、と肩に体重がめり込む。おそろいのシャンプーが、何故かいまだ毛量の衰えを知らない黒黒とした髪から香る。その奥に潜む肌の熱と匂い。パソコンを閉じて、その髪に少しだけ頬を寄せる。
診療所でもどこかの有名な研究所や製薬会社や財団でもなくてここに居ることを。
どこにでも行けるはずのこの人が選んで私のそばにいることを祈って目を閉じた。